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[ 2016年09月15日 - 20:52 ]

【ペルフーモ:ろくろ職人からレジェンドへ】


翻訳第二弾。

http://www.fifa.com/news/y=2016/m=3/news=perfumo-lathe-operator-football-legend-2769816-2769896.html

60年代から70年代にかけて活躍したペルフーモは、80年代のパサレラと並んでアルゼンチン史上最高のCBと呼ばれる名選手。
つい最近もAFA選定のアルゼンチン歴代ベスト11にルジェリやアジャラを抑えて選出されたもの、今ひとつ知名度に乏しく、日本ではWikipediaのページさえなし。
そこで(例によって長いが)またFIFAのサイトから訳してみた。

***

ペルフーモ:ろくろ職人からレジェンドへ

「本業は何だね?」

「ろくろ職人です」

「じゃあ、そいつを頑張れ。君はサッカーには向いてない」

だが、リーベルプレートのユース・ディレクター“エル・ゴルド”(太っちょ)ディアス(Diaz)の下したこの判断ほど、大きな過ちはないだろう。というのも、件のろくろ職人の少年、ロベルト・ペルフーモ(Roberto Perfumo)は、17歳でこのクラブを自由契約で去ったのち、スターとしての才能を開花させるのである。それも、偉大なスター、アルゼンチン・サッカー史上最高のセンターバックの一人として。二つ名がまだそれなりの意味をもった時代に、評論家のホセ・マリア・ムニョス(Jose Maria Munoz)は、彼を“エリア内の司令官”と呼んだ。ペルフーモは常にその称号に相応しい存在であり続けた。“司令官”という語は、強靭さと優雅さを併せもつプレースタイルを完璧に言い表す言葉だった。そこには相手選手を止める鋼の足と、チームメイトを活かすシルクのタッチが共存していたのだ。

もっとも、彼の才能を見抜けなかったのは、ディアスだけではなかった。それ以前にも、ペルフーモはラヌースとインデペンディエンテの入団テストに落ちていた。当時は左のミッドフィールダーであり、1940年代生まれのアルゼンチンの選手が皆そうであるように、地元の泥だらけのピッチでサッカーを始めた。もっとも、彼には他にもこの職業について学ぶ方法があった。『エル・グラフィコ』誌のインタビューで、彼はこう述べている。「子供のころ、私はよくラシンのスタジアムへ尊敬する選手たちのプレーを見に行った。そして、彼らのプレーを“ポトレロ”(間に合わせの泥のピッチ)で真似したものさ」

そして、このラシン・クラブがついに才能を見出し、ペルフーモは1961年にこのクラブへと移った。ろくろ職人としての日々は過去のものとなったが、それは彼の中に名残を残すには十分な時間だった。「私は13のときに徒弟を始めた。あれは正確さを要求する仕事でね。エリアの中でと同じようなもんさ」彼はかつて、トレードマークのユーモアのセンスを覗かせ、こう語っている。たしかに、彼のタックルするタイミングの正確さは、怪物的であったが。

○ターニングポイント:ピスッティの英断

ペルフーモの資質について、ディアスには欠けていたビジョンを豊富に持ち合わせていたのは、当時ラシンの監督をしていたファン・ホセ・ピスッティ(Juan Jose Pizzuti)だった。負傷により二人のディフェンダーを失ったため、彼はフェロとの試合で、若きペルフーモを中盤からディフェンスラインの中央へと移し、アルフィオ・バシーレ(Alfio Basile)と組ませた。「私たちはぼろ糞に言われた。ファンは私を殺しかねなかった。それでピスッティに言ったよ、上手くいく訳ないって。だが、ボスは頑固だった。『お前はあそこでプレーするんだ。お前は代表に呼ばれるんだ。そしてワールドカップに出て、俺のとこにロンドンのボールを持ち帰って来るんだ』ってね」それは1965年8月のことだったが、その年の12月には、彼はオスバルド・スベルディア(Osvaldo Zubeldia)によってアルゼンチン代表に招集された。「それでも、前言撤回はしなかったがね」

ペルフーモは、まだ中盤でプレーしていた頃にも、1964年の東京オリンピックに出場しているが、そのときは開催国相手に2-3で敗れ、有名な悔し涙を流している。しかし、ディフェンダーとしての活躍の方は、特筆すべきものであった。1966年のイングランドW杯では、卓越したパフォーマンスを見せ、アルゼンチンのベスト8進出に貢献したし、1974年の西ドイツ大会では、キャプテンも務めている。それでも、この世代の選手が皆そうであるように、彼もまた“アルビセレステ”を取り巻く混乱の犠牲者だった。

「当時の代表チームは、選手を素晴らしく消耗させたものだ」彼はのちに、『アシ・フガーモス』(私たちが選手だった頃)という本の中で、ジャーナリストのパブロ・ビゴーネ(Pablo Vigone)にこう語っている。「協会はまったくもって滅茶苦茶だった。ろくな準備も練習もなかった。闘志とか、野心とか、熱意とか、そういうものが一切求められないまま、ただ練習をしていたんだ」

そして、こうした惨状の結果が、アルゼンチン史上ただ一度しかないワールドカップの予選敗退だった。1969年にボカ・ジュニアーズのホーム・ボンボネーラで行われたペルー戦に2-2で引き分けたため、1970年のメキシコ大会出場を逃したのだ。ペルフーモは語る。「そのとき、私はサッカーをやめたいと思った。そして、どこか遠く、誰も自分を知らない場所へ消えてしまいたいと思ったね」

○サッカーとタンゴの関係

この敗北は、1974年にヨハン・クライフ(Johan Cruyff)率いるオランダに敗れたときと並んで、ペルフーモをしても不可能を可能にすることができなかった数少ない瞬間のひとつといえるだろう。これに関して、熱烈な“タンゲーロ”(タンゴ愛好家)でもあったペルフーモは、伝説的なバンドネオン(アコーディオンの一種)奏者であるアニバル・トロイロ(Anibal Troilo)の格言「タンゴでは、すべては簡単か不可能かにすぎない」を引用し、こう言い換えている。「だが、それはサッカーも同じさ。つまり、簡単か不可能のどちらかなんだ」実際、彼は幾度となくこのことを証明してきた。たとえば、当時のコパ・リベルタドーレスで繰り広げられた激戦の数々に楽々と勝利し、1967年にはラシンを栄冠へと導いて見せた。さらに、翌年のインターコンチネンタル・カップでもセルティックに勝利し、この異業に花を添えている。

また、クルゼイロでも4つのタイトルを手にし、アルゼンチンの選手として初めて、ブラジル・サッカー界のアイドルとなった。おまけに、1970年代当時としては大ベテランともいえる32歳でリーベル・プレートに復帰すると、クラブの18年間にわたる無冠時代を終わらせ、“ロス・ミジョナリオス”に3度のリーグ優勝をもたらして見せた。だが、36歳となった1978年のある日、彼は“スーペル・クラシコ”を前に、自分がピッチの上でもリラックスしている他の選手たちを羨ましく思っていることに気づいた。それが、引退の時を悟った瞬間だった。

引退後、ペルフーモは監督業を始めてみたものの、この仕事は、“日曜日にはラビオリ(詰め物入りパスタ)を食べて、うたた寝する”という新しいライフスタイルと合わなかった。そこで、しばらくは静かな生活を楽しむことにして、織物業を営み、10年間サッカーを離れて過ごした。その彼が再びベンチに座ったのは、1991年のことだった。ラシンでタイトルを争ったのち、1994年にはヒムナシア・ラ・プラタを率いて、アルゼンチン・サッカー協会百周年記念杯を制した。だがこれを最後に、またしても“クオリティー・オブ・ライフ”を優先し、二度と采配をとることはなかった。

一方でジャーナリズムは、ペルフーモがサッカーとの蜜月を維持するうえで、理想的な手段だった。選手自体の豊富な経験に加え、社会学の素養も交えて、深い洞察を述べることができた。15年以上にわたり、人々は、かつての“司令官”が書き、述べることに、腰を下ろして、耳を傾けた。それは2016年5月10日に悲しいニュースが飛び込んできたときも同様だった。事故の影響で患った動脈瘤により、ロベルト・ペルフーモは73歳でこの世を去った。

そういう訳で、ペルフーモが“エル・ゴルド”ディアスの言葉に耳を貸さなかったのは、本当に幸いなことだったと分かるだろう。

***

うむ、日本は五輪でアルゼンチンに勝ったことがあるのか。
今なら大ニュースだが、当時の五輪はアマチュアの大会だから、アルゼンチンはプロ入り前の若い選手が中心だったんだろうな(それが現在のU-23のルールに繋がるわけだが)。

それにしても、協会のゴタゴタがピッチに影響を及ぼす“アルゼンチン病”は、半世紀前から相変わらず。
結局、グロンドーナという独裁者は、必要悪だったということか。

なお、本文中、ところどころよく分からないところは適当に翻訳。
また、FIFA公式の本文だと、バシーレのファースト・ネームがアルフレド(Alfredo)になっていたが、単純に誤記だと思うので、直しました。




スレッド作成者: ディアス氏ぼろ糞w (qossbYOdLhk / rHY36Q310Qs)

このトピックへのコメント:
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(09/16 - 18:53) フリオクルスがもともとサッカー場を整備していた庭師であったよね。アルゼンチン(南米のほかの国も)のサッカー文化ってそういうなんでもないところにすらいくらでも名選手の才能が埋もれているくらい、日本とは比べ物にならない程人々の生活に根付いているということのなのかな。
(09/15 - 21:40) モもくろ職人に見えた