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[ 2019年06月06日 - 17:51 ]

【スロヴェニア初のワールドクラス】


■ブランコ・オブラック

旧ユーゴスラビアでもっとも実績を残しているクラブチームは、やはりと言うべきか、世界一にも輝いたツルヴェナ・ズヴェズダ(レッドスター)である。続くのは、同じく首都ベオグラードを本拠地とするパルチザン・ベオグラードで、1945年のリーグ創設から1991年の国家分裂まで、この2チームによる優勝が半分以上を占める(第2次大戦前のユーゴスラビア王国時代は、むしろクロアチア勢が優勢だったが)。
だが、1970年代にはクロアチアのハイドゥク・スプリトが黄金時代を迎えたこともあった。
ハイドゥクとは、バルカン半島でオスマントルコの支配に反抗した英雄的義賊たちの呼び名であるが、その自由の闘士の名をいただくチームは9年間で4度のリーグ優勝、国内カップ戦5連覇を果たし、74年ワールドカップにも多くの選手を送り込む。この頃は、ユーゴ代表のスタメン11人中半分以上の6人をハイドゥクの選手たちが占めることもしばしばだったと言われている。

なお、国家分裂後もハイドゥクは92年から始まったクロアチアリーグ(HNL)の第1回チャンピオンであり、93/94・94/95シーズンを連覇するなどリーグを代表する強豪だった。しかし独裁者として知られるクロアチア大統領トゥジマンによる政治的な介入もあって、リーグナンバーワンの座を現在はディナモ・ザグレブに奪われる形となっている(だがザグレブも、クロアチアの国威発揚をもくろむトゥジマンによって「クロアチア・ザグレブ」に改名させられている。ディナモ・ザグレブの名に戻るのはトゥジマン死後)

話を戻して、その70年代のハイドゥク黄金時代を代表する選手にブランコ・オブラックというスロヴェニア人がいる。在籍期間はわずか2年間だったがインパクトは絶大で、人によってはピクシー以上のゲームメーカーと評する声もあるほどである。


ブランコ・オブラックは1947年にスロヴェニアの中心都市リュブリャナ(現スロヴェニア共和国首都)で生まれた。地元のユースチームからキャリアをスタートさせると、66年にスロヴェニア最大のクラブであるオリンピア・リュブリャナからトップリーグデビューを果たした。デビュー戦の相手はパルチザンであったが、2得点を挙げる活躍で2-1の勝利に貢献する。
とはいえ、スロヴェニア最大のクラブであっても、多士済々のユーゴ国内にあっては明らかに力不足で、オリンピアは概ね中位〜下位が指定席だった。
それでも69/70シーズンには国内カップの決勝まで進出する。決勝の相手はドラガン・ジャイッチのいるユーゴ最強チームのツルヴェナ・ズヴェズダ。この試合は延長戦までもつれこんだが、ジャイッチの決勝ゴールの前にオリンピアは涙を飲んだ。
オブラック自身はこのシーズンからユーゴ代表に召集されはじめ、テクニシャン揃いのユーゴでもなお際立ったテクニックで、代表でもゲームメーカーとして不動の存在となっていった。
そして73年までオリンピアに在籍すると、翌シーズンはハイドゥク・スプリトに移籍する。この頃のハイドゥクには、才能に溢れる選手たちが揃っており、70/71シーズンにはリーグ優勝もしている。しかし、ここ2シーズンは中位に低迷していたため、再起を期して、またそれまでゲームメーカーを務めたイヴァン・ホレブニャクがフランスへ移籍したため、その後釜の意味もあってオブラックをチームの中心に据えたのである。


当時のハイドゥクには前述したとおり優秀な選手たちがいた。
攻撃的ライトバックのイヴァン・ブリアン、左サイドのユーティリティプレーヤーであるイヴィツァ・シュリアック、攻撃的MFのユリツァ・イェルコヴィッチ、リベロのルカ・ペルゾヴィッチ、キーパーのリザ・メシュコヴィッチ、若き俊英MFドラゼン・ムジニッチ。彼らにオブラックを加えた7人は74年ワールドカップメンバーであり、その他に控えキーパーのイヴァン・カタリニッチ、代表50キャップ以上を誇るベテランDFドラガン・ホルチェル、後にアメリカに渡ってインドアサッカーに転向したストライカーのスラヴィサ・ジュングルなど、代表クラスの選手を多く抱えていた。
オブラックが加入して最後のピースが揃ったハイドゥクは、ジャイッチやウラジミール・ペトロヴィッチの二人の“星人”のほか、代表でオブラックとダブル司令塔となるヨバン・アチモヴィッチを擁するズヴェズダに競り勝って、国内リーグを制した。オブラックにとっては、これが嬉しい初のタイトル獲得となる。
国内カップ戦でも、今度はハイドゥクの選手として再びズヴェズダと決勝で対戦。以前の借りを返す格好でこれを撃破し、リーグとカップの2冠を制した。

74年ワールドカップには、ユーゴ代表の一員として出場。
もともとスロヴェニアはアルペン競技の国であり、20世紀になるまで旧ユーゴ地域のなかでは、比較的サッカー後進の地であったが、オブラックは初めてワールドカップでプレーしたスロヴェニア人となった。

74/75シーズンにリーグ2連覇を達成した後、28歳になっていたオブラックは国外へ移籍する。この頃のユーゴでは28歳までは国外移籍が認められておらず、逆に28歳になれば国外へ活躍の場を移す選手が多かった。オブラックと入れ替わりにハイドゥクを退団したホレブニャクも、同様に28歳になって国外移籍に挑戦をした選手であった。
フランスでプレーする選手が多かった中で、オブラックの移籍先は当時世界最強リーグであったブンデスリーガのシャルケ04。ここで2シーズンを過ごすと、次に移ったのは、ブンデスリーガの盟主でありチャンピオンズカップ3連覇も成し遂げていたバイエルン・ミュンヘンである。
だが77/78シーズンは、ちょうどベッケンバウアーがバイエルンを退団してチームが混乱している時期であり、移籍から2シーズンはタイトルの獲得はできなかった。3年目になり、ようやく新しいエースであるルンメニゲのチームとして生まれ変わったバイエルンは、マイスターシャーレを掲げることに成功する。オブラックも、中盤の重要なピースとして優勝を支えた。
そのシーズンにバイエルンを退団したオブラックは、オーストリアのチームに移籍し、そこで現役を引退した。
引退後は指導者の道を進み、スロヴェニア代表監督にも就任している。


ちなみにオブラック退団後のハイドゥクは、イヴァン・グデリやヴヨヴィッチ兄弟など若い力が台頭し、78/79シーズンにもリーグを制している。また、その優秀なユースシステムからはヤルニ、アサノヴィッチ、ボクシッチなど、後にビッグクラブで活躍しクロアチア代表としてもなじみ深い選手たちを輩出している。



スレッド作成者: ヤン・オブラク (daXsujDv7V2)

このトピックへのコメント:
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(06/07 - 10:09) カタネッチ優秀だったよ (yMTtCWPXQfU)
(06/07 - 09:28) 懐かしい名前を沢山挙げてくれてありがとう。ブリヤンて結局民族籍はスロベニアだっけ? (W2AXy1Jbd2o)
(06/06 - 23:22) アトレティコの試合はいつも早い時間にやってるからレアル、バルサより目にする機会多い気がする (HkgMRL2zJlI)
(06/06 - 22:18) ザホビッチ (K1zxRIEIZpQ)
(06/06 - 19:45) 素朴な疑問なんだけどオブラクのプレーを見る機会ってほとんどなくない?数あるチームの中からアトレティコの試合を選んで見ることがない。リーガならやっぱレアルかバルセロナ見るし。同時にプレミア、ブンデス、セリエもやってるし。スロベニア代表は尚更見る機会ない。たぶん今シーズンでアトレティコ見たのはレアルとやったときの1試合だけ。 (3tPvZOZhsmQ)
(06/06 - 18:53) オブラク良い (tm7R2D3avec)
(06/06 - 18:39) 良スレ。シリーズ化希望 (5FXrE7Rqx/c)
(06/06 - 18:12) GKのオブラクをデビューさせた監督か (f1MRZQvrtME)