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[ 2019年06月07日 - 17:08 ]

【サトルステギくんのダイナマイトヘッド!】


■ヘスス・マリア・サトルステギ

スペインで「レアル」といえば、レアル・マドリーではなくレアル・ソシエダのことである。
1928年の全国リーグ創設時から参加しているチームのひとつで、同じバスクのアスレティック・ビルバオとともに、長くバスク人の純血主義を貫いてきたことでも有名である。
スペインでも重要な港をもつバスク地方は、イングランド人も多く訪れ歴史的に見てもスペインサッカーに強い影響を及ぼしており多数の有名選手を輩出している。リーグ得点王に与えられる賞をピチーチ賞というが、名の由来になった名ストライカー・ピチーチはもとより、リーグがスタートして9年間はすべてバスク出身選手がピチーチを獲得した。現在スペインの2強と呼ばれるレアル・マドリーやバルセロナにも、過去に多くのバスク人が在籍してきている。

1931年の革命によってスペイン第二共和政が誕生すると、レアル・ソシエダは「王室公認」という意味のチーム名をドノスティアCFと改名した(ドノスティアはサン・セバスティアン市のバスクでの呼び方)。しかし、1939年にスペイン内戦が終結してフランコが政権を握ると、元のレアル・ソシエダにチーム名を戻している。
初期のビルバオが数々の栄光に包まれているのに対し、ソシエダは何度か2部降格を経験するなど、冴えない成績が続いていた。しかし60年代後半に1部に昇格すると、以後は中位を安定してキープするようになった。
とはいえ、まだまだバスク人純血主義のみが唯一の特徴と言えるような典型的な中堅クラブにすぎなかった。だが、そんな中堅クラブが起した奇跡がある。その奇跡の中心人物が、ヘスス・マリア・サトルステギである。


ヘスス・マリア・サトルステギは、1954年にパンプローナで生まれ、17歳のときに3部リーグに属していたサンセバスティアンCFでデビューした。このチームは現在のソシエダBチームであり、若手選手の育成を目的にしている。
2年後にトップチームに合流すると、そのシーズンにチームは4位に躍進し、UEFAカップ出場権を手にする。翌年のUEFAカップは1回戦で惨敗したものの、リーグでは再び4位でフィニッシュした。

70年代後半には、カンテラ出身の選手たちが台頭してトップチームに次々と加入してくる。
サトルステギをはじめ、代表でも守護神を務めるGKアルコナダ、空中戦に絶対的な強さを見せるDFゴリス、ゲームメーカーのMFヘスス・マリ・サモラ、守備的MFながら高精度のミドルシュートを装備し得点力のある“ペリコ”アロンソ(シャビ・アロンソの父)。これにカンテラ出身ではないが左ウイングのロペス・ウファルテを加えて、ソシエダはリーグ屈指の実力チームに成長していった。
なお、ゴリス以外は82年ワールドカップのレギュラーメンバーでもある。

79-80シーズンには、R・マドリーと壮絶なデッドヒートの末、1ポイントの差の2位となった。このシーズンは34試合でわずか20失点しか許さず、敗戦を喫したのは1試合のみであった。
そして80-81シーズンに、奇跡は成就する。
王者R・マドリーと勝ち点で並び、当該チーム同士の対戦成績により、ソシエダはチーム史上初のリーグ優勝を果たしたのだ。アルコナダを中心とした堅守は2年連続でリーグ最小失点を記録した。
サトルステギは16ゴールを挙げ、優勝に大きく貢献。こぶしを突き上げる独特のゴールパフォーマンスでスタジアムの観衆を大いに沸かせた。
サトルステギは、体を張ったプレーと前線を休みなく動き回るタフさが売りのファイター型のストライカーで、エリア内での強さとヘディングが武器となっていた。相手マークを引き付け、味方をフリーにするプレーも得意で、前線でコンビを組むロペス・ウファルテもそれによって得点を重ねた。
翌81-82シーズンも依然として堅守は健在だった。アルコナダは3年連続でサモラ賞を獲得し、エースFWサトルステギも13ゴールを挙げてリーグ連覇を達成。2位バルセロナに2ポイントをつけての堂々たる優勝だった。
サトルステギは、ピチーチ賞こそ獲得していないものの、82年までの6年間の平均ゴールは17得点と、スペインを代表するストライカーであることを証明していた。
自国開催となる82年ワールドカップにもエースストライカーとして出場。「黄金の四人」のブラジルが話題をさらうなかで大きな活躍は残せなかったが、このときがサトルステギにとってのキャリアの絶頂だった。

だが、好事魔多し。82-83シーズンも開幕した11月のサラゴサ戦。激しいタックルを膝に受けたサトルステギは、半月板損傷の重症を負ってしまう。
その瞬間にサトルステギの選手生命は終わってしまった。
82-83シーズンはもちろん、その翌シーズンも棒にふり、必死のリハビリを終えて再びピッチに戻ってきたのは、怪我から2年後のことであった。大歓声に迎えられたサトルステギだったが、地元の英雄が輝きを放つことは、もはやなかった。
2年後にサトルステギは32歳で早すぎる引退を決断した。復帰後の2年間で、彼が決めたゴールはわずかに6点。

怪我によって引退を早めてしまったサトルステギだったが、それでもリーグ戦133得点、公式戦162得点は、ソシエダの最多得点記録である。


ソシエダが初めてバスク人以外の選手と契約したのは89年のアイルランド人ジョン・アルドリッジであるから、リーグ連覇は、まったくの純血バスク人のみで成し遂げられたものである。
ちなみに、翌年の82-83シーズンと83-84シーズンは、クレメンテ監督のもとアスレティック・ビルバオがリーグ連覇を達成している。バスクがスペインリーグを支配した4年間と言えるだろう。
彼らの次の世代にはバケーロ、ゴイコエチェア、ベギリスタインらがおり、ビルバオ出身のスビサレッタとともにクライフ率いるドリームチームの中核を担うことになる。

同じバスクのビルバオに大きく水を開けられていたソシエダであったが、サトルステギをはじめとしたカンテラ出身選手たちの活躍で、ビルバオと並ぶバスクの雄と認知されるにいたった。



スレッド作成者: じとうくんふっとばされた! (daXsujDv7V2)

このトピックへのコメント:
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(06/07 - 20:13) エイスメンディ歓喜
( ゜ё゜) (06/07 - 20:02) ディウセフくんのキャノンヘッドだぞぉ
(06/07 - 19:03) ランピオンくんだろ!と思ったら、ランピオンくんはロケットヘッドだった。