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[ 2019年06月11日 - 17:58 ]

【栄光に彩られたプラハの黄金コンビ】

■ スヴァトプルク・プルスカル

チェコには「ウルチカ」と呼ばれる言葉がある。「細道」を意味し、狭いエリアでショートパスを交換するチェコサッカー伝統のプレースタイルを表す言葉でもある。
巧みなボールキープから、リズムよくショートパスを繋いでオーバーラップを繰り返し、チーム全体が渦を巻くように連動する攻撃はダニュービアンスタイルとも呼ばれ、中央ヨーロッパのサッカースタイルの範となった。
1920年にチェコ・スロバキアが成立すると、早くからオリンピックなど国際舞台でも活躍。プロ化が進んだ1934年にはワールドカップでも準優勝し、ダニュービアンスタイルは世界から絶賛された。

そんな古豪チェコで史上最高の選手と呼ばれ、チェコ人として最初のバロンドールに輝いた選手がヨーゼフ・マソプストである。ピッチの中央に司令塔として君臨し、誰よりも長い距離を走って誰よりも多くボールに絡む。優れたボールコントロールの技術を持ちドリブルの世界的な名手でありながら、何よりもチームを優先する献身的なプレーを好む。
そしてウルチカの伝統を体現するこの司令塔には、常に彼に付き従う分身のような選手がいた。
時にはタフな守備でエースの負担を減らすことでも貢献し、またパスの受け手としても活躍する。さらには代役としてゲームを組み立て、相手チームからの激しい削りを代わって引き受ける。
過去の有名な司令塔役の選手には、影武者的な、あるいは相互補完的な名パートナーが存在するケースが少なくない。マティアス・シンデラーにおけるフリードリヒ・グシュバイドル、ヨハン・クライフにおけるヨハン・ニースケンス、ミシェル・プラティニにおけるアラン・ジレス、ディエゴ・マラドーナにおけるホルヘ・ブルチャガなどがそれにあたるだろうか。
クラブでも代表でも同じチームでプレーしたスヴァトプルク・プルスカルもまた、マソプストにとって名パートナーというべき存在だった。


“双子”と称されることもあった二人だが、外見はまったく異なる。どちらかというと小柄で黒っぽい髪のマソプストに対し、しなやかな長身と金髪を持つプルスカル。長い脚を活かしたスライディングタックルを得意とし空中戦でも強さを発揮する。ユーティリティ性に優れ様々なポジションとタスクをこなしたが、特に守備的な面でマソプストを支えていたと言えるだろう。

少年時代からサッカーセンスの高さを見せていたプルスカルは、ユース時代にはストライカーとしてプレーしていた。チェコ・スロバキアのユース代表にも選ばれ地元チームからプロデビューを果たした彼だったが、1952年に22歳で有力クラブであるATKプラハに移籍すると、守備的MFやDFへのコンバートを余儀なくされた。
ATKは1947年に軍部によって作られたクラブチームで、通常の移籍の他に、徴兵という名目で優秀な選手を強制的に集めることも可能だった(徴兵期間中はATK所属となる。ユーロ76優勝メンバーのヨーゼフ・アダメツも徴兵中の3年間はこのチームに所属した)。プルスカルもまた、強力な政治力を背景に持つATKに引き抜かれたのだが、同じ年にATKに移籍してきていた選手たちの中にマソプストの姿もあった。

チームの厚い選手層から守備的な役割を与えられたプルスカルだったが、結果的にこのコンバートは大成功だった。マソプストとのコンビは相手チームの脅威となり、翌53年にUDAプラハと改称したチームは創設6年目にして早くも初の優勝を達成した(当時は春秋制)。
1956年にデュクラ・プラハと更に名を変えたチームは、初優勝の1953年から1966年まで、4連覇を含め14年間で8度のリーグ制覇を果たすなど黄金時代を築きあげた。
マソプストとプルスカルのデュオが軸となり、黄金時代前半のGKにはパベル・コウバ、後半には欧州最優秀GK賞を2度獲得したイヴォ・ヴィクトルが立ちはだかる。守備の中心には代表でも長きに渡って活躍した偉大な主将ラディスラフ・ノヴァク。中盤には技巧的なリンクマンのヤロスラフ・ボロヴィツカを加え、テクニシャンのヨーゼフ・イェリネクと快速ヤン・ブルモフスキの左右ウイングに、才能溢れる点取り屋ルドルフ・クチェーラらのFW陣。デュクラ・プラハは、またたく内にその名声を高めて、国内のみならず海外でも猛威を揮う。

北米サッカーリーグに先駆け、世界のクラブチームをアメリカに招いて1960年に第1回大会が開催された「インターナショナル・サッカー・リーグ(ISL)」では第2回大会に参加。参加クラブを2グループに分け、それぞれのグループでリーグ戦を行って首位同士のチームで決勝戦を戦う。
デュクラ・プラハは、ツルベナ・ズベズダ、ラピッド・ウィーン、エスパニョール、ASモナコなど欧州からの参加チームを軒並み撃破し、6勝1分けのリーグ首位で決勝進出。決勝ではイングランドのエバートンを2試合合計9−2と大破して優勝した。
翌1962年に、その年のISLチャンピオンと前年チャンピオンが対決する「アメリカン・チャレンジ・カップ」が行われると、ブラジルのアメリカRJ(現・アメリカFC)を破ってこれも制した。63年から、アメリカン・チャレンジ・カップがその年のISLチャンピオンと前年のチャレンジカップ勝者との対戦に変更されると、63年・64年と優勝して3連覇を達成する(63年の対戦相手はボビー・ムーア擁するウエストハム)。
ISLは様々な障害もあって1965年大会を最後にその幕を閉じたが、デュクラ・プラハが世界屈指の実力クラブであることを示すものだった。


代表選手としてもプルスカルは54年・58年・62年のワールドカップと60年の欧州選手権に出場していたが、最大の成功は、なんといっても62年ワールドカップにおける準優勝であろう。
ブラジルにならって4−2−4スタイルを取り入れたチェコ・スロバキア。心臓部にあたる「2」のMFをつとめたのが、エースであるマソプストとプルスカルのゴールデンコンビだった。
プルスカルは激しいディフェンスでマソプストをもりたて、準々決勝でハンガリー、準決勝でユーゴを撃破すると、決勝の相手は予選ラウンドでも引き分けた前回覇者の王者ブラジル。ブラジルはこの予選ラウンドのチェコ・スロバキア戦以後、ペレが欠場を余儀なくされながらここまで勝ちあがってきた。両チームを牽引するガリンシャとマソプストのドリブラー対決は注目を集めた。
試合は、イェリネクが対面のジャウマ・サントスを翻弄し、マソプストのゴールでチェコ・スロバキアが先制するも、目覚めたガリンシャが3得点をアシストする大活躍で、ブラジルが連覇を果たす。
チェコ・スロバキアは34年大会に続いて2度目の準優勝に終わり、悲願のワールドカップ優勝はかなわなかった。


その後、プルスカルはマソプストと共にFA100周年記念試合に招待されて出場、また欧州選抜に選ばれるなどヨーロッパトップクラスの選手として名声を博した。
デュクラ・プラハには1966年まで在籍し、前述の8度の優勝全てに貢献。その後は他チームに移籍し、1シーズンをそのチームで過ごして引退した。

ちなみに、プルスカルの退団と同じ時期にノヴァクも退団。68年にはマソプストもデュクラ・プラハを去った。一時代を築いた主力が相次いでいなくなったが、それでもデュクラは強豪クラブの地位を保ち続けた。70年代のエースであるズデネク・ネホダやラディスラフ・ヴィーゼクを中心に、その後も3度の優勝を達成した。
しかし、1989年に民主化革命が起こるとデュクラもその波に翻弄された。もとより軍部の影響力の強かったデュクラ・プラハは共産主義時代の旧体制の象徴でもあり、企業からの支援を受けられない状態が続いた。急速に成績は低迷し、チェコ・スロバキアが連邦制を廃止して解体され、新たにチェコリーグが発足した93−94シーズンに、リーグ最下位となったデュクラは2部に降格が決まった。
以後、合併・分裂、昇格・降格と浮沈を繰り返し、デュクラの名を受け継ぐチームは19-20シーズンを2部リーグで過ごすことになりそうだ。



スレッド作成者: パネンカ (daXsujDv7V2)

このトピックへのコメント:
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(06/11 - 23:05) 主よ、ブログかノートやれ
(06/11 - 20:37) このスレずっと前に見たことある。主は同じ人なのかな?
(06/11 - 20:16) なげーよ!
(06/11 - 18:29) チェコにそんな選手いたのか